”上級国民騒動"から考える(1)

 普段はモータースポーツを中心としたことを書いている当ブログですが、稀に真面目なことを書いたりします。昨年の10月に当ブログ(旧ブログ)では、2019年に東京都豊島区池袋で発生した高齢ドライバーによる死傷事故について、誤った認識を正すための記事を3回に分けて投稿しました。
 誤情報を鵜呑みにして正しく理解しないままに全く見当違いの批判をする人が多いことから、正しい情報をきちんと理解することの重要性などを知っていただきたかったからですが、その後(というかその時も現在進行形でしたが)世の中ではアメリカ大統領選挙やら、COVID-19とそのワクチンやらでも同様にでたらめな情報が広まって問題となっています。
 この交通事故という出来事においても、それから1年以上が経過した現在においても、交通事故、とりわけ高齢ドライバーの事故が報じられるたびに同様の事柄は発生し、2021年11月17日に大阪府大阪狭山市のスーパーマーケットの敷地内で発生した高齢ドライバーによる死傷事故でも、やはり同様に「なぜ釈放されるんだ」「無罪なんておかしい」「なぜ"さん"付けなんだ」などの反応を目にしました。
 全体から見ればごく一部なのかもしれませんが、ひょっとして普段このブログやTwitterなどをご覧いただいている方の中にもいらっしゃるかもしれないですし、改めて啓発したいと思い、内容に一部その後の話を加筆した上で掲載したいと思います。加筆はしますが、基本はその時の内容をそのまま引っ張ってきますので、時制が一致しないケース等が出るかもしれませんがご了承ください。


 2019年4月19日、東京都豊島区東池袋で、自動車が赤信号を無視して法定速度を大幅に超過する速度で走行して通行人を次々と撥ね、2名が死亡、8名が重軽傷を負う悲惨な事故が発生しました。いわゆる池袋暴走事故です。運転していた被疑者の飯塚 幸三はその後起訴され、2020年10月8日に東京地方裁判所で初公判が行われました。被告が無罪を主張した、という報道に対しては批判が殺到していますが、一方で驚くのは、未だに、上級国民が云々という誤情報に基づいたコメントをしている人が非常に多いことです。

 普段のブログの内容とはかなり趣が異なりますが、ひょっとすると知り合いやこのブログの読者の方々の中にも、根本的に誤解をしたまま過ごしている方がいるかもしれない、ということと、本件に限らず、情報を受け取る側の振る舞い、注意点等について考えておくべき点が多いように感じる出来事であるため、この件について取り上げてみたいと思います。
 なお、私は専門家ではないので、可能な限りじっくり調べて記事作成をしてはいますが、用語の誤用等がある可能性がある旨ご容赦願います。致命的に間違っていたらお知らせ願います。

・マスコミが忖度して『さん付けしている』→完全に間違いです

 私が知る限りでは、最初にこの話が大きく取り扱われるようになった要因はこれではないかと思います。事故発生から間もない頃の報道で既に被疑者について一部メディアでは実名報道がなされましたが、『飯塚幸三さん』『旧通産省工業技術院の飯塚幸三元院長』などと報じられました。これに対してネット上で「マスコミが上級国民を忖度してさん付けしている」「さんじゃなくて容疑者だろ」といった声が噴出しました。未だにこれを持ち出してコメントをしている人がかなり見られますが、そもそもこれが誤解です。

 『容疑者』という単語はそもそもマスコミ用語と呼べるもので正式な用語ではありません。法令用語では『被疑者』と呼びます。マスコミでは、『ヒギシャ』と『ヒガイシャ』が似ていることや、『あくまで容疑がかけられているだけで犯人と決まったわけでは無いですよ』といった意味合いで容疑者という単語を用いています。

 50代以上の方ならご存知かもしれませんが、かつては事件報道に際して逮捕された被疑者のことは呼び捨てにする、というのがマスコミの慣例とされていました。しかしながら、逮捕=有罪ではなく、裁判で有罪が確定するまでは『推定無罪』が司法の原則。逮捕されて呼び捨てにされている人=犯罪者、という結びつきが強かったため、1984年にまずNHKが『容疑者』という呼称を使用し始め、その後いくつかの事件を通じて、全てのマスコミが同様に容疑者呼称を使用するようになったとされています。

 で、それがどう関係あるのかというと、各マスコミは『どういう時に容疑者と呼ぶか』という内規のようなものがあり、基本的には『逮捕されて身柄を拘束された人』であることが条件となっています。翻って今回の事故、飯塚は逮捕されていませんでした。理由は後述しますが、事故を起こした本人も肋骨を骨折して救急搬送されて入院しました。入院した人は逮捕できないからです。

 元々、交通事故では仮に逮捕されても実名報道されないケースも多いんですが、この事故では多くのマスコミが初期段階から実名報道を行いました。ところが、

本人が入院して逮捕されていない→逮捕されていない人は容疑者と呼べない→しかし一方で呼び捨てもできない、

とこういう流れになります。内規では、基本的にこういったケースでは『さん』付けするか、肩書を用いることになっており、これによって上記のようなことが起こりました。

 最初に目にしたものがさん付けで、次にみたのが肩書で、しかも長ったらしいいかにも高級官僚な感じ、といったことが、『上級国民デマ』に繋がったのではないかと想像します。さん付けはさすがにおかしかったのか、ほとんどのマスコミが『旧通産省~元院長』となったことが、余計に上級国民デマを補強してしまった、というのもありそうです。


 思い出されるのは2018年、未成年者に対する強制わいせつの疑いで歌手グループ・TOKIOのメンバーである山口 達也が書類送検された際に報じられた『山口メンバー』という言葉。メンバーなんて呼称聞いたことが無いので意味不明だと私も思いましたが、このケースも、山口は逮捕されたのではなく、任意調査に基づいて書類送検(後に不起訴)され、この段階で報道されたため、マスコミ内規では容疑者呼称に該当しなかったのです。
 とはいえ"さん付け"にもしにくい、社長、選手、などの固有の呼称もない、と、言うなれば策に窮して出てきたのが『メンバー』でした。過去には『島田 紳助司会者』という呼称も存在したようですが私は覚えていません^^;

 そもそも、交通事故では実名報道されないケースも多い中で逮捕前に実名報道されたのは、10名が死傷した重大さに加え、元官僚という過去に一定の社会的地位にあった人物であることも考慮された可能性があります。言うなれば『上級国民だから名前を出された』とも考えられるわけですが、実際の反応は真逆でした。
 容疑者とはどういう意味か、というのを知らないのは無理もないでしょうから、さん付けや妙な肩書に違和感を覚えるのは仕方ないと思いますが、そもそも本当に忖度する気なら実名報道なんてしない、とすぐ気付くと思うんですけどね。。。

 ただ、マスコミの敬称・呼称という点において、基準が今一つ不明瞭だったり、山口メンバーのような妙なことがある、というのは確かです。私なんかはスポーツは好きなのでよく見るわけですが、引退した選手がいきなり『〇〇氏』となるのは違和感が強いです。
 話を戻すと、マスコミ内においても、『指名手配されている』『被疑者が死亡している』などいくつかの要件に該当する場合、身柄が拘束されていない人物でも容疑者呼称を用いる場合があり、島田司会者の件でも容疑者を使用したケースがあるようです。また、今回の飯塚の件でも一部メディアは途中から容疑者呼称に切り替えました。基準を変えたのか、頻繁に問い合わされて面倒だと思ったのか知りませんが、多くはそのままだったのでこれを知っている方も少ないかもしれません。
 また、仮に逮捕されたケースでも、その後に釈放されると容疑者呼称から"さん"に切り替わったり、実名報道から匿名報道に切り替わったり、ということが起こります。裁判においても、被告の段階では実名報道されていながら、裁判で無罪の判決が下るとその報道を行う段階から匿名に切り替わったりします。

 このブログをずっと読んでいる方はなんとなく知っているかもしれませんが、私は記事を書く際、人物名の記事内での初回の登場時には必ず『フルネーム・呼び捨て』とし、社会的肩書等がある場合でも名前の前に付けています。2回目以降は苗字のみにしたり、内容によってはあだ名やらさん付けやらで取り扱います。例外はゲーム仲間やコメントを下さる方のハンドルネームぐらいでしょうか。

 私の場合内容の99%がモータースポーツ関連の記事でほぼ選手名である、というのが主な理由ですが、例えば日本の人と海外の人で、日常的になんとなく呼び方が違う方も多いと思います。これが記事内で、かたや「本山さん」「琢磨選手」「星野監督」などと書いておいて、かたや「ロッテラー」「ダリオ」「ビノット」と書くのもおかしいので、基本はフルネーム呼び捨てで統一して表記の揺れをなくしたい、というのがあります。
 だから何だ、という話ですが、この記事内でも、時系列的に事故発生直後等の被疑者を『被告』と呼称するのも妙な気がするので、基本的に『飯塚』や『被疑者』という単語を使用しています。

・上級国民だから逮捕されない→基本的に間違いです

 じゃあなぜ逮捕されないのか、というところでこの話が出てきます。ネット上では「なぜ飯塚だけ逮捕されないのか」「早く逮捕しろ」といったコメントが多数存在します。これも「上級国民だから特別扱いされている」というわけですが、基本的にこれも間違いです。

 これもそもそもの話からですが、逮捕というのは、簡単に言うと『身柄を拘束して取り調べする場所まで連れていく』ことを指します。誤解している人で案外多いと思われるのが『逮捕=懲罰』『逮捕=有罪→刑務所行き』というようなものだと思われますが、逮捕は捜査の一手段に過ぎません。

 また、逮捕には大きく分けて『通常逮捕』『現行犯逮捕』『緊急逮捕』の3種類があり、通常逮捕では逮捕状を裁判所に請求する必要があり、緊急逮捕は逮捕後に同様に逮捕状が必要です。唯一逮捕状が不要なのが現行犯逮捕で、交通事故で運転手が逮捕された、といったら100%これに該当すると思います。

 先に仕組みの話を全て書いておくと、逮捕した場合その後どうなるか、というと、法律で警察は逮捕した人を48時間しか拘束できません。この間に取り調べを行います。そして、『身柄を検察に送致するか、釈放するか』を決めます。
 警察が「まだこいつは身柄を抑えて取り調べにゃいかん!」と思った場合、身柄を検察に送ります。マスコミでは『送検』と表記しますが、法律用語上は『送致』が正しいそうです。送致しなかった場合はここで釈放となります。
 釈放=無罪放免、と誤解されますが、そうではなく身柄の拘束が解かれるだけで、その後は必要に応じて在宅捜査と呼ばれるものになり、任意で聴取を行いながらさらに捜査を進めます。なお、誤解されがちですが、逮捕されて送り込まれるのは『刑務所』ではありません。刑務所は裁判で刑罰を受けることが確定した人が入る場所です。

 送致された場合、検察はそこまでに警察が取り調べた資料と身柄を受け取り、取り調べを引き継いで行いながら、今度は24時間以内に『勾留請求するか、釈放するか』を決定します。勾留、というのは、身柄をそのまま拘束して拘置所や警察の留置施設に留め、取り調べをさらに継続することです。勾留するためには裁判所の許可が必要で、裁判所は被疑者に証拠隠滅や、逃亡の恐れが無いかを判断し可否を決定します。

 なお、勾留とよく似た単語で『拘留』というものがありますが、こちらは『1日以上30日未満で施設に身柄を拘束される』という刑罰で、禁錮刑のさらに1段階下のやつです。非常に分かりにくいですが、勾留と拘留は全く別物なので注意が必要です。

 勾留が決定された場合、最大で10日間の勾留、さらに検察はオプションでもう10日の勾留請求が可能で、許可されると最大20日の勾留となります。いずれの場合でも、検察は勾留期限終了までに『起訴するかどうか』を決めないといけません。起訴というのは、検察が被疑者を『この人を裁判にかけることにします』と手続きをすることです。マスコミでは起訴された段階から呼称が『被告』に変わります。

 警察が重大事件などでよく『再逮捕』というのを行います。理由はいくつかありますが、そのうちの1つはこれらの時間制限が関係していて、勾留期限内に取り調べが終わらないため、もう一度別の容疑で手順を1から進めて時間を延長するという意図もあります。もっとも、露骨すぎると裁判所に拒否されることがあります。
いらすとや より
検察菅のイラスト、だそうです

 では話を池袋の事故に戻しましょう。なぜ飯塚は逮捕されなかったかというと、前述の通り怪我をして搬送され、そのまま入院したからです。逮捕というのは身柄を拘束して取り調べ場所に連れていくことですから、入院して病院送りなら逮捕はできません。逮捕しない、というよりは、逮捕できない、と言った方が正確かもしれません。
 報道によれば肋骨を骨折したとのことで、「そのぐらいで入院は必要ない」「逮捕してからでも入院できるだろ」などの声もありますが、87歳の高齢者が肋骨折ってるところを治療もせずにつれていって、容体変わったらどうします?結果的には肋骨の骨折だけだったとしても、事故直後にはどれだけ身体を損傷しているか、詳しいことは分かりませんよね。

 次に「じゃあ退院後になぜ逮捕しないんだ」という話が出てきます。結論から言うと、逮捕の必要がないと判断されたからです。まず第一に、前述のように逮捕には3種類ありますが、退院後はもう現行犯ではないので通常逮捕となり、逮捕状を請求する必要があります。
 しかし逮捕をするにあたっては理由が必要で、捜査のために身柄の拘束が必要で、証拠隠滅や逃亡のおそれがあることが求められます。逆から言えば、そうでないと判断された人は逮捕できないのです。報道によれば、飯塚は入院中から任意の事情聴取に応じ、退院後も自ら警察署に出頭して任意聴取に応じていることから、逮捕の必要は無いと判断されたと思われます。
 よく『退院を待って逮捕する』というような表現を耳にするかと思いますが、これは殺人などの凶悪事件の被疑者であったり、あるいは詐欺事件など家に帰すと証拠をどっかにやりかねないような事件に対して行われる対応です。交通事故の場合、証拠の消しようが無いので事情が異なります。

 なお、逃亡のおそれ、という判断材料には、住宅、一定の社会的地位、財産、知名度などがある人が、『それをわざわざ全部捨ててまで逃げるようなリスクの高いことはせんだろう』といった意味合いが含まれています。見出しで”基本的に”と書いたのはここにかかっており、強引な言い方をすれば、上級国民は相対的に逮捕されにくい、と言えます。上記要件に該当しやすいですからね。芸能人などの有名人でも同様の判断をされるケースがあります。

 これは逮捕・起訴後の保釈に関するものですが、その想定が完全に裏目に出たと考えられるのが日産自動車の元会長・カルロス ゴーンで、まさか逃げはせんだろう、と思ったらまさかの国外への大脱出を果たしてしまいました。『絶対逃げない』はあり得ないわけですが、それを言い出したら誰もかれもみんな身柄を拘束し続けることになってしまうので、個別の判断の是非は横に置くとして、制度上はそうなっています。
 また、仮に警察側で逮捕の必要あり、と思っても、裁判所がこれを許可するとは限りません。刑事訴訟法第143の3には

逮捕状の請求を受けた裁判官は、逮捕の理由があると認める場合においても、被疑者の年齢及び境遇並びに犯罪の軽重及び態様その他諸般の事情に照らし、被疑者が逃亡する虞がなく、かつ、罪証を隠滅する虞がない等明らかに逮捕の必要がないと認めるときは、逮捕状の請求を却下しなければならない。

とあります。裁判所の許可が下りない可能性が高いのです。
 また、仮に飯塚が怪我をしなかったとしましょう。この場合、間違いなく現行犯逮捕されたでしょう。ただ、検察は高齢者に対しては勾留を認めないことを基本原則としています。検察もまた、年齢等を考慮するためです。そのため、仮に逮捕されていても、勾留されず釈放された可能性が高いと考えられます。

 「逮捕されて拘束されて過ごすのと自宅で過ごすのでは大違いだ、逮捕しろ」といったコメントも見受けられますが、おそらく逮捕しても在宅捜査にすぐ変わるので結果は同じです。現実的に逮捕・勾留が刑罰のように機能してしまっている、社会がそういう認識を持っている、というのは否めませんが、逮捕は刑罰では無く捜査の1手法であり、必要がなければされないものですし、今回の事故でも勾留にはおそらく至らなかったでしょう。

 大阪狭山市の事故でも、被疑者の男性は自身は入院するほどの怪我をしなかったとみられ(妻は重症だったようです)現行犯逮捕、その後に送致されました。しかし、その後に検察の求めた勾留の請求を裁判所が認めずに釈放されています。
 交通事故では現行犯逮捕されても、事故の証拠となる自動車は調べられていますから証拠を隠滅しようがありません。そのため、取り調べ段階で過失を認めていれば、いずれかの段階で在宅捜査に切り替わることが多いとされています。高齢が理由で裁判所が勾留申請を認めなかった、とされていますが、別に高齢でなくても勾留要件が無ければ裁判所は許可を出しません。

 詳細は省きますが、ゴーンの事件でもよく話題に上がった通り、日本の刑事司法は『人質司法』とも呼ばれることがあり、とにかく被疑者が自分の非を認めない限り身柄を拘束し続ける、こらしめてでも吐かせる、裁判が始まるまで閉じ込める、というような捜査手法であると国際的に批判されてきました。
 そうした経緯から、近年はできるだけ身柄拘束に頼らないようにしよう、という流れになっています。そんな中で、マスコミ自身の中に結局は『被疑者は逮捕されるもの』という昔の概念が残っていることが、容疑者と呼ぶ、呼ばないの話の元凶の1つであるのは確かだと思います。

 また、警察も逮捕が事実上刑罰として機能するようなことを行って来たというのはやはり同様だと思いますので、この問題は自らがそもそも長年に渡って積み上げてきた問題点に起因しているとは思います。ただ、この件では特に他のケースと比べて特別におかしな点があるというわけではなく、誤解や制度の理解不足によって騒動が不必要に大きくなっており、上記とは別の問題としてしっかり考えないといけないと思います。

 話がとても長いので次回に続きます。

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